ネパール旅行記 12

「あ、あれ、タティじゃない?」

ジュン君が山道の向こうの人影を見つけてそう言う。

結局、私は日の沈む前にタンボチェのロッジで寝てしまった。早朝、ジュン君の声で目が覚めた。彼らはロブチェという集落までいって昨夜のうちに帰って来たという。氷河は見られなかったらしいが、きっと、さらに一歩、山にちかいところまでいって、なにか彼にしかわからないものを感じ取ってきたのだろう。

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今日のうちにモンジョまで辿り着きたい。明後日はルクラに泊まっていないと、その翌朝のカトマンズへのフライトに間に合わないのだ。もちろん、順調に飛んだとしてなのだが。

夜のうちに戻ってきてくれていたおかげで、ゴニッシュと3人で早めの出発がかなった。私の体調も考えて、ゴニッシュにモンジョまでは付いて来てもらうことにする。

帰り道は下りなのだから、ずいぶん早く進むのではないか。そう思っていたが、集落があるごとに、道は山谷を繰り返す。下っているような登っているような、思ったよりもペースは上がらない。ゴニッシュは、相変わらず、近所の公園でも散歩するかのように、手をジーンズのポケットに突っ込んで、飄々と歩いている。

もうすぐ、ナムチェバザールが見えてくるかな。そう思っていた頃、ジュン君がタティーを見つけたのだ。

「あら、あなたたち!やっぱり、また会えたわね!」

陽気な彼女の声が、少し疲れた私たちの表情を明るくしてくれる。
結局、今日の朝までナムチェにいて、これからようやくベースキャンプ方向へと歩き始めるのだという。旅がおわって、日本に帰ってから知ったのだが、結局、高山病の兆候を感じ取って、彼女は途中で登山を中止する。時には、あきらめるというのが大切な勇気を示すことになる。無理をしなかった彼女は賢明だ。

「あなたたちがいて、いい旅になったわ。3人で一緒に写真撮りましょう。」
「こちらこそだよ。三人並ぶと、すごく目立つ3色だね。」

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タティーだけでなく、この帰り道で、いろんな旅人にあった。
ほとんど荷物ももたずに、一人だけで世界中を旅してる64才のベルギー人。世界一周するんだといって、タイ近辺でうろうろしながら近郊に旅行している、若い日本人カップル。のんびり、おしゃべりしながら、目的地を定めずに女友達と二人で楽しそうなオーストラリアの中年女性。

みなそれぞれの山の道を楽しんでいる。

本当にいろんな国から、いろんな価値観の人が。みんなみている世界が違う。世界最高峰の意味も違う。ただ、ひとつ。あの場所はこの星で一番宇宙に近いということ。その事実だけは首肯せざるえない。

ナムチェまで着く。ナマステロッジでランチを頼む。
ゴンバの祭りで一緒にいった家族が、おかえりなさいと言ってくれる。

ここまでおりて来ただけで、ずいぶん俗っぽい感じがする。
あの、タンボチェの時間とは、肌触りが違う。

靴紐をといてくつろぐと、様々なことがタイミングよく流れた数日だったのがわかる。それは、旅の終わりまで続いた。

ナマステロッジから、帰りの飛行機のリコンファーム(予約再確認)をする。ルクラの職員の名前と携帯番号を聞いていたので、話は早かった。

このあたりから、すっかりリラックスして歩いていたように思う。
高度がさがって、雲に覆われることも減ってくる。青空が時折のぞく。

世界が美しい。

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その日は、どうにか暗くなる前にモンジョにたどり着き、ゴニッシュと別れ、久々の温かいシャワーにありつけた。そして、翌日は本当にゆっくりと歩き、日がくれて雨が降り出した頃になってようやくルクラにたどり着いたのだ。

そして、ルクラの入り口で、私が携帯番号を控えていた航空会社の職員が待っていた。

「明日の我が社の便は欠航になった。それでも、他社の便がもし飛ぶようなら、君たちをそちらに振り替える手続きを僕がする。追加料金はいらない。もし、他社が飛ばなかったとしても、明後日は我が社のフライトがある。それでもダメな時は、ヘリもあるし、帰国便には間に合うようにするから、心配するな。」

そう告げるために、ここで待っていてくれたらしい。雨の中。ただし、状況が流動的なので、空港から一番近いロッジに泊まってくれと頼まれる。予算の問題もあるし、部屋を見てからだ、とも思ったが、あまり選択権はなさそうだ。彼の指示に従って「ホテルネスト」に泊まることになる。

「エベレストを肉眼で見られましたか。この時期に。そりゃあお客さんたちラッキーですよ。私も以前はガイドをしてたんですがね、スイスからきたお客さんをこの雨季のころに40日ほど案内したんですが、一度だってエベレストを見ることは出来ませんでした。しまいにはお客さん、私に怒り出しちゃってね。しかし、私に言われてもねえ。」

そういうこともあるだろう。とにかく、私たちはラッキーだったのだ。天の導きに感謝するしかない。私の人生自体、ラッキーだけを資本に生きているようなものだ。日々、感謝以外に出来ることなど何もない。

すこし匂う客室のホテルネストに、もう一泊するのはどうもな、などと考えながら、6時台の一便のフライトが飛び去り、数機が着陸し、離陸していくのを横目で見ながら、10時ごろにやっと空港に来てくれと、例の職員から連絡が入る。

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こうして私たちは、ルクラを飛び立ち、昼頃、カトマンズに戻ることが出来た。これも後から知ったことだが、結局、翌日も、翌々日も、ルクラから飛行機は飛ばなかったらしい。おかげで私たちはカトマンズの市内観光も出来て、カトマンズで見られる世界遺産はすべてまわれた。

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17日には、帰国便も予定通り飛んで、福岡にたどり着く。これまた後から知ったことだが、当初予定していた14日発の便は、上海で止まってしまっていた。もし、その便だったら、上海のホテルに二泊することになっていただろう。それは今回の旅のモードにも、旅の予算にも似合わない。

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他にもいろいろとタイミングがギリギリで大丈夫になることがあった。ルクラにたつ前に用意したルピーもほとんどなくなっていた。

17日の夕方から、約27時間。ひたすら、ぼーっとしていたように思う。

福岡に戻って、そのままの足で私は息子と一緒に近くの温泉にいって垢を流した。
ジュン君はさっそく農作業があるといい、その足で熊本へ帰る。

タフだ。

なんにせよ、無事に帰ってこられた。その感覚が夜を支配していた。