愛する皆さんこんにちは。
今日もしばし旅の時間にお付き合い下さい。
「今日は日本から、お客さんが来てくれています。お名前はケイ・ヤサカさん。皆さん最初は英語で。それからインドネシア語で。そして日本語であいさつしましょう。」
「おはようございます。ヤサカさん」
「彼は、グラフィックアーティストです。ご覧下さい。こんなカレンダーや、こんな絵を描かれていますよ。私がかつて夫の仕事で日本に4年間すんでいたとき、八坂さんは、鶴ケ島市で私たちの国の民族芸術のコレクションを案内する仕事をされていました。その時お会いして以来の友人です。」
「八坂さんは、今回ひさしぶりに私たちの国を訪れました。そして、今日は彼の初めての絵本を紹介してくれます。それではケイさん、どうぞ自己紹介を。」
ここは、セント・ジョセフインターナショナル高校。私を紹介してくれているのは、ヨギ・バランパタスさんです。実は昨年末、パプアニューギニア行きを計画した頃、いくつかのシンクロニシティーを体験していました。その一つが、ヨギさんとの再会でした。
私はかつて、埼玉県鶴ケ島市が所蔵していた1725点のオセアニア造形物を活用した社会教育を担って勤務していたことがあります。
当時、愛知万博という自然環境をテーマとしたイベントがあり、オセアニアの民族造形を展示するブースもありました。そのいくつかを鶴ヶ島のコレクションから貸し出すことになり、その当時、PNGの公使として日本に来ていたバランパタス氏にコレクションを案内することがありました。
皆さんご存知のように、私はその後関東を離れ、福岡で制作をしていますが、当時の知人が、福岡に住むPNGゆかりの人に私の連絡先を伝えていたらしいのです。その方のお家に年末ヨギさんが遊びに来られていて、偶然、私の話題になったそうです。そして、一度電話してみましょうということになったそうで、私の携帯が鳴りました。
その時、私はちょうど、エアニューギニーの2月の搭乗便の先行予約割引について調べていたところでした。
「ヨギさん?お久しぶりです。どちらにいらっしゃるのですか?
え?福岡?福岡のどこですか?」
「そうなんですか?そこは私の家から、2キロと離れていないところですよ?」
そうして、私はヨギさんと再会し、そこで昨年出版した「めくってください」をピジン語で読ませていただきました。
彼女は、話しを聞いて涙を浮かべられました。
そして、この話しを私の学校でして下さいと仰った。
今は、私たちをつないだ鶴ヶ島のコレクションは解体され、いくつかの研究機関にばらばらに保管されています。
PNGでは、外国との接触が比較的すくなかった1960年代まで、非常に高い精神性と完成度をもった造形物が、宗教儀礼の必然性から生み出されていました。
それらは、海外のコレクターの垂涎の的となり、一時期さまざまなオークション会場で高値で取引されていました。
そのような作品群は、メトロポリタン美術館のマイケルロックフェラーウィングなどで、誇り高く展示されています。
そのようなコレクションと同程度の品質と規模で、鶴ヶ島のコレクションも存在していました。
さまざまな経緯があり、私は20代の半ばそのコレクションに出会い、留学への道を選びました。もう、現在のPNGにそのような造形物をつくる文化的背景も条件も無くなりつつあります。わたしが様々な村を訪れ、出会い、話しを聞いた長老達は、その最後の世代で、伝統として話は次の世代に受け継がれてはいても、生きた生活文化ではなくなりつつありました。
そのような作品群には、自然そのものなかに潜む精霊との対話から生まれた、とても創造的で根源的なバランスや美しさが宿っていました。私にとっては、新しい時代の人類に相応しいアートを生み出していくために、必要不可欠な理想が、その作品の中に息づいていると直感されたのです。
コレクションは、関東のいくつかの大きな美術館で何度かの展示を経験しています。ヨギさんは、高校生達に日本の高度な伝統文化やヨーロッパの絵画と並んで、PNGの造形物が展示されている様子をパンフレット等をつかって説明し、自国の文化を違った視点から見直すことを提案します。
「日本の街はとても綺麗です。みなとても洗練されていて発展した美しい国です。ケイさんはそこでアートを学び、お仕事もされましたが、彼がもとめていたのは私たちの国の森や山から生まれた精霊像だそうです。」
残念ながら、そのような文化財は、PNGからはほとんど失われてしまっています。ですから海外のまとまったコレクションは、PNGからの預かりものであり、次代への世界遺産でもあります。
「おはようございます。皆さん、これからはピジン語で話しますね。私は、かつてゴロカ(ニューギニア高地にある都市。かつて私が通った大学がある場所)に住んでいました。ですので、私にとってはピジン語で話すのは、とても楽なことなのです。」
「今回、私はウエストニューブリテンのキラゲ村というところに行ってきました。キンベからPMVとボートを乗り継いでも、丸一日はかかる場所です。その村の生活は、街とは随分違います。食べ物はお金で買うのではなく、大地から分けてもらうもので、水は川が届けてくれます。ポートモレスビー(PNGの首都)のような渋滞も粉塵もありません。」
ポートモレスビーは、いま急激な近代化の時間を通り抜けている最中で、さまざまな混乱と社会問題が露呈しています。スラム化や役人の不正、海外資本の寡占など、正に荒波の中で翻弄されている船のようです。
様々な国のビジネスマンが首都に住み、その子女はインターナショナルスクールに通います。ここセント・ジョセフはPNG人の割合が高いのですが、中には村の生活を知らなかったりします。
村と街の生活のコントラストは、とても激しいものです。
私たちが一週間の村の生活を終えて、キラゲの村を出るのは、火曜の朝になりました。今度は私たちの他にも乗客がいて、ガソリン代は頭割りになりました。
のんびりとした生活の中、何度か叔父や叔母達と砂の上に数字を書いて、旅費の算段をしました。みんなそれぞれに「俺に任せとけ」というので、意見がまとまりません。私は数日をかけて話しをまとめ、結局3人の叔父と兄弟が私とともに空港のある街まで一緒にいく事、帰りの分のガソリン代は私は見ないことで話しがつきました。
浜辺から船が発つとき、いつものように沢山の家族がならんで見送ります。年老いたおばあちゃん達は、最後かもしれないといって、泣いてしまいます。そんなことないよといっても、詮のないことです。
今日は私が最も信頼する叔父のパトリックがスキッパーです。アイサポもいっしょにいて、先ずは「ガル」と呼ばれるキンベ(ウエストニューブリテンの中核都市)までの道路に通じた集落へ、約8時間の海路です。
今回は天候に恵まれ、空は青く、タラウェ山も周りの山並みもとても美しく見えます。
軽快に走るボートで、私たちはパラダイスから遠ざかって行きます。
ガルからはトラックの荷台に揺られて、2時間くらい。
キンベに着くと、イギーの従兄弟にあたる叔父の家で休みました。
あたたかく向かえてくれる家族の時間は、村の延長です。しかし、そこでの二日間は、テレビの音、車の音、食事に入るコンソメの味、缶詰の肉、小さな盗み、酔っぱらいの叫び声、それらが背景の生活。私にとっては懐かしくもあるけど、ニューギニアの街の生活の一端が淳くんに新しい印象を与えます。
イギーの従兄弟レオ叔父さんは、マレーシア資本のとても大きなヤシ油プランテーションの会社に雇われて、会社が準備した従業員居住区のフラットにたくさんの家族と暮らしています。
レオ叔父さんは私が来たことを本当に喜んでくれました。ケイとこうして話していると、村に帰ったみたいだと言ってくれ、木曜の朝ホスキンスの空港に向かうときは、こらえきれず男泣きしていました。
「圭さん、村のみんなは、村の生活と街の生活とどっちが好きなんだろう。」
今、多くの若者が、特に仕事もないのに街へ出ようとしています。
キラゲの村にも、「街に行きたいなあ。ビデオが欲しいなあ。車に乗りたいなあ。ケイの国はビルばっかりなんでしょ?すごいね。」と、素朴に都会を夢見る子供達はいます。
と、同時に、キラゲには退役軍人や、街で働いていた男達も戻って来ています。彼らはあえて、村での生活を選んだ人々です。
パトリックもそんな一人です。キンベに来て二日。彼はレオ叔父さんの家のベランダで談笑し、多くを語らず、村にいたときと同じように堂々としています。私は彼に淳くんの問いを投げかけてみました。
「ケイ、その質問は聞くまでもない。村の生活こそ本物だ。」
どうしたら、地球一つが、キラゲのように笑って、ゆたかでつつましく、美しく輝いていられるか。
答えはありません。ただ、人々が楽園の型をしって、我欲を去り、執着に気づいてそれを手放すなら、愛において日々を生きるなら、人類が成長するのなら、そんな未来があるのかもしれません。
「さあ、それではみなさん。私の絵本を読みますね。
めくってください。I am a book…」
ヨギさんは最初1限目と5限目だけを私に用意していました。
液晶プロジェクターで「めくってください」のDVD映像が流れます。あの美しいピアノの音とともに、絵があらわれる。そして、わたしはピジン語でストーリーをよみました。
頷く顔と、笑顔。
あなたの手で、あなたの人生を。
ヨギさんは予定のクラスをキャンセルして、べつのクラスを視聴覚室に呼びました。
結局その日、私は5コマのクラスで一日中ピジン語での朗読を行いました。
私たちは気づかないといけない。
とても身近で宇宙は私たちを、見守り、愛し、美しさを見せてくれていることを。
土曜日、かつて私は帰国便のフライトキャンセルも体験したことがありますが、今回は無事、搭乗出来ました。
帰国後、いつものように撮った写真や描いた絵の整理に追われます。
印象が消えないうちに、制作もはじめます。
日々の瞑想もいつものとおり。
キラゲからキンベまでの一日がかりの移動の後、レオ叔父さんの家の側にハウスボーイとして用意されたフラットで、私は村の男達と車座になり、テラスで話していました。
「あー、さすがにつかれたな!長い旅だった!ケイ、おまえまだまだ若いなあ!次はきっと二人の子供も連れてこいよ。」
「あー、そうだなあ。そうしたいもんだ。私もタラニア家の男だからなあ。」
「ケイの日本の名前ってなんだっけ?」
「ヤサカだよ。」
「へー、どんな意味なんだ。」
「八つの坂って意味の漢字だ。」
「あー、その、漢字ってのには意味があるんだ。そういや、タラニアってのも、意味があるんだよ。タラが『帰る』で、ニアが『家』だ。タラニアってのは家に戻るって意味なんだ。」
私は、出国前、わたしが深い瞑想の中で見つけた魂の定点観測所について圭通信に書きました。まだ、パプアニューギニアという国を知らない頃の話です。そして27歳、私はあの浜辺の村へ行った。
そして37歳。私は家に帰ったことを知ったのです。
今朝、キラゲの村に電話をしました。
電波は途切れがちだけど、あの村に電話が出来るのがなんか不思議です。
「アー、ケイ、ケイ、ケイ!村はなんにもかわりなく、大丈夫だよー。そっちの子供達は元気かー。」
「ああ、元気だよ。淳も山の中で元気だ。もう二週間だね。やっと落ち着いたんで無事の知らせだ。」
「そおか、よかった。また帰って来るの楽しみにしてるよ。」
そう、いつかまた魂の故郷へ。
信頼する大地と空に抱かれて、宇宙は愛に満ちていることを知る私は、それを伝える仕事がここであるから。それを果たせたら、またきっと、家に帰るさ。
そうやって、また人生のページをめくるんだ。
今回の旅の記録は、撮影機材にも収めています。
その後の制作とあわせ、映像作品としてまとめようと思います。
今日はその予告編をご覧ください。
それでは、また。
これで、パプアニューギニア紀行を終わります。
いつかまた、続きのあることを祈って。
宇宙に満ちる愛とともに。
ワールドピース
圭
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八坂圭のアートレッスンについて。
今回は3月8日、9日、11日です。
3/8 木曜日
14:00~15:30(9名)
17:30~19:00(4名)
3/9 金曜日
14:00~15:30(9名)
17:30~19:00(4名)
3/11 土曜日
14:00~15:30(9名)
17:30~19:00(4名)
帰国後、私に十分な制作の時間を確保してくれた家族の協力で、
太陽と大地のエネルギーを十分に生かした新作ジークレーを
披露することが出来そうです。
その、光の中でのレッスンとなります。
どうぞ、お誘い合わせの上ご参加下さい。