「自分を何ものかに固定化してしまって、そこから対象をみるのは本当の自由ではありません。
何ものでもない自分へとたちかえり、ただ目の前にあるものを何の先入観もなく見るとき、目の前の対象は宇宙の英知を開示します。」
これは、わたしが未来の自分のために書き留めていた言葉です。
旅をするときに、ずっとこのような視点をもてたらどんなに素敵でしょう。
とはいえ、インドの雑踏のなかで、各国のアーティストたちと一緒にわたしも群衆の一部。
ときに、彼らと同じように感じ、彼らと同じように見ている。
今は「日本から来たアーティスト」という役。
それもまた、旅情です。
例えば、こんなことがあります。
イベントの間、すべての食事は主催者から支給されるのですが、政府が支給できるのはベジタリアンメニューだけだそうです。ハラールへの配慮なので しょうね。
わたしは普段からそれになれているので、嬉しかったのですが、参加者によっては、途中から疲れてしまったようでした。そんなとき「今日はカフェで たべない?」と誘われたら、一緒にキングフィッシャーという少し甘めのビールを一緒に楽しむ。そんな柔軟さで、共にいる人々と同じように感じてみるのも楽しい時間です。
私はといえば、最後まで、毎日違ったスパイスの味わいを楽しめて幸せでした。
カジュラホーに行く前に、タージマハールへ立ち寄り、その大きさと壮麗さに触れました。
これは、ムガル帝国のシャー・ジャハーンが、妻のためにつくらせた霊廟。
どれだけの財産と、人の努力がそこにあるのか。
天文学的なスケールを感じることもできれば、宇宙のなかの小さな人間の営みの一つと見ることもできます。
視点を固定化しないとき、見えてくる何かがある。
冒頭に挙げた言葉がうかんできます。
タージマハールの背景にはイスラムの教えがあって、偶像崇拝を忌避する感覚から、そこには一切、人の形をした彫刻はありません。
ただ、この造形も宇宙観を表しているといいます。
目的地の世界遺産はそれと対照的です。
とても硬い岩をこれほど精巧に彫る人間の技に驚かされます。
カジュラーホー寺院群(10~12世紀)は男女の性的結合を神聖なものとするミトゥナ造形で有名なので、「愛の(カーマ)方程式(スートラ)」 (4~5世紀)と結びつけられて宣伝されており、公式ガイドと名乗る人も、そのように話します。
わたしはどこかそれに釈然としないで寺院をスケッチしていたのですが、そのもやもやも、またこの旅の終わりには解決されるのでした。それは、また 後の記事で。
皆で食事をしていると、その寺院群にからめ、イタリア人のジョゼッペが、自分の女性遍歴をたのしそうに話します。
それを穏やかな笑顔で聞いていたネパールのビノッドが、歩き出しながら「圭、ああいう話は、聞くにとどめるのが最善だね。」と穏やかにいいます。
私たちは寺院群の芝生に一緒にすわり、遠くから眺めスケッチをする。彼は美しい絵をわたしにくださいました。
ベトナムから来た彫刻家の女性、ラップは、「このエロティックな群像をみるのが、今回の旅の大事なことなの」といって、一緒にみて歩いていまし た。たくさんの神々と、人間たちが、誇り高く、凛として、愛し合っている群像が、果てしなく続く世界。そうして、遠くからそれをながめるとき、わたしには宇宙的な視点が感じられます。「こうして離れてみるこの建築が、とても印象的だね。」そういうと、彼女も「本当に。」と応えていました。
宇宙とはなんだろう。生きている私たちは、宇宙にとってどんな存在なのだろう。そんな問いかけと、そのことへの議論は、おそらく思考という機能を 持ったときから何万年も続いているのでしょう。そして、だれもが納得するそれへの答えは見つかりません。
夜になると、毎晩、寺院前のステージでインド各地の舞踊団が自慢の踊りを見せてくれます。世界中から多くの観光客が集まっているので、英語での説明も交えます。とても広大な宇宙観を背景にそれを擬人化して表現している。インドほど多くの宗教を生み出してきた場所はないのかもしれません。それぞれ、少しずつ違うのでしょうが、ブラフマン、シバ、ビシュヌなどは繰り返し表れてくる名前で、なにか漠然と同じ背景をもっているのを感じます。また、毎晩見ていると、なぜか、そこにあるエッセンスが、日本の能の舞台の底流にあるものと重なって行きました。
いったい、これはなんなのだろう。と不思議な感覚を感じながら、わたしは深く思考することなく、ただ、日々の刺激の中を泳いでいた。そのときはまだ、そういう感覚でした。
今日はここまで。
読んでくださったのならば、ありがとうございます。
今、新しい何かがはたらいて、3月末からの個展の作品が仕上がりつつあります。
宇宙からの愛が、あなたにとどくように。