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ネパール旅行記 5

2014年07月28日

空港で買ったダライ・ラマの「オープンハート」を読んでいる。山の中では早朝起きて、あとはひたすら歩くばかり。夜も疲れて早くに寝てしまう。携帯端末もないので、水力発電や太陽光発電などを利用して、Wi-Fiが使えたとしても、私にはやることがない。日本にいる時、いかにインターネット上の情報を見るのに時間を割いているかを痛感する。今はその分、本を読んでいる。

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よくテレビで見かけるように、彼は英語を使いこなす。このビーコンシアターで行われた講演もほとんどが英語だったという。もちろん、本にするに当たっては編集者がいるのだが、彼独特の語り口を残したものになっている。

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仏教用語というのは、私たちの国日本では、1000年以上の手垢のついた言葉として存在している。曰く、仏法僧、涅槃、解脱、輪廻、三昧、慈悲、悟り。本来の意味を求めようにも、なにか一般人は入ってはいけない特別区を設けられているような幻想を抱きがちである。

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しかし、こうして英語になってみると、その言葉本来の意味が改めて浮き上がり、仏法が説こうとしていることのシンプルな面が見えてくる。この文脈の中では慈悲は”compassion”であり、”love”である。執着は”attachment”であり、寛容は”tolerance”である。

言葉の意味を噛みしめるように、まるで高校生に戻ったかのように、10年以上使っている小さな電子辞書の英英辞書を引き、ダライ・ラマの説くことにひとつひとつ共感している。


ロッジには、大抵なにか一つは、彼にちなんだものが貼ってある。言葉だったり、写真だったり。そして、シェルパの人の慎ましさ、強さ、優しさのなかに、生きている仏典を感じる。

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ダライ・ラマは言う。私が法王であっても、結局は皆さんと何ら変わらない人間なのだと。持っている可能性は皆同じで、おなじように苦しみから逃れたいと言う欲求を持ち、幸せに生きたいという大志を抱いているのだと。そのような私たちが、それらを成し遂げる可能性の一つとして、仏教徒の生き方というのを紹介しようと。


その語り口は多くのひとをひきつけた。


そして仏法は言う。それぞれがそれぞれの転生のなかで積んだ徳に応じて、必要な今生を生き、そしてまた学ぶのだと。


多様であり、一つである。
わたしがレッスンを通じて、伝えようとする、一次元上の意識体。
その理解への道が、ここにもある。


物がなくなって、時間がシンプルに流れ出すと、人の頭は一つのアイデアに集中できるようになる。

私という存在の意識がどれほどクリアーで、放埓な愛に満ちているか。
宇宙的な感覚に満たされているか。それだけが、私の作品に反映される。

私がどこへ行って、何をして、どんな評価を得たかなどは、絵のエネルギーにはおおよそ関係ない。私という定点観測所を通じて流れゆく無窮の宇宙の愛に、どれだけ私が無判断で委ねていられるか。それだけなのだ。

ゴンバを終えて、ナムチェの朝も早い。私の豪快なイビキのせいで眠気まなこのジュン君も、けれどすっかり歩き始める準備は出来ている。昨夜のうちに頼んでいたポーターは少しおくれているようだ。




今のうちに靴紐をしっかりと締めて、さあ、今日は目的のタンボチェまで、薄い酸素の中歩き抜こう。